私の前では泣いていいよ
- 2017.01.27
「幸せになるぞ」
ということは覚悟がいる。
道の真ん中を光を浴びて歩くのだから。
私があなたを照らす。
自分なんかダメだ、自分なんか端役だと思っている人、
割り切っている人に幸せになってもらいたい。
幸せにしたい。
だから歌う、私を照らしてくれたファドと、あなたを照らす。
私の前では泣いてもいいよ。
私も散々泣いたんだ。
これが私のFADOの道。
Até logo!
「幸せになるぞ」
ということは覚悟がいる。
道の真ん中を光を浴びて歩くのだから。
私があなたを照らす。
自分なんかダメだ、自分なんか端役だと思っている人、
割り切っている人に幸せになってもらいたい。
幸せにしたい。
だから歌う、私を照らしてくれたファドと、あなたを照らす。
私の前では泣いてもいいよ。
私も散々泣いたんだ。
これが私のFADOの道。
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私は、若い女性たちにもファドはとてもいいと思っています。
自分の心や魂を浄化してくれる音楽だからです。
特に20代後半から30代の女性、
お仕事に恋愛に頑張っている女性たちにプレゼントしたい。
背中を押してくれるし、心をいたわってくれます。
歌っているのはあなたの想いだから。
~捨てた夢に泣く 涙がかれるまで この涙が海になる~
~愛することをやめることなんてできない 私の罪~
~あなたのキスは私の命のもと 樹が根から受け取るように~
ファドでキレイになってもらえたら本当に嬉しいです。
Até logo!
突然ですが、自分の声は好きですか?
私は中学生の時に初めてテープに録音した自分の声を聞いて、
「いや~~~~~!!!」と拒絶、話し声にも背筋が凍りました。
骨伝導で自分に聞こえる声と、ほかの人が聞く声は違うんですよね、衝撃的事件でした(笑)
皆さんもそんな経験はありませんか?
ファドを歌う上で、またレッスンをする上で大事にしているのは「自分の声」です。
鍛えられた美しい声も勿論素晴らしいのですが、
特にFADOにおいてはヴィヴィッドな感情が伝わる声がさらに大切になると思います。
●好きなことを話すとき (私の場合は愛犬の幹太のこと)
●過去の失敗談を話すとき
●恋について話すとき
●サプライズプレゼントをもらったとき
●足の小指をぶつけたとき
まぁ色んな声を出していますよね、いったい何人の私がいるんだろうと思うくらい。
どれも私なんですが。
ファドを聴いて魅かれる理由の一つは、気持ちのある声だと思うのです。
やっぱり「その人の声」「その人の気持ち、心の中」が聞きたいし、
悲しんで、喜んで、切望して、迷って、そして一歩をだして・・・そんな人を魅力的だと思うのです。
だから、自分がはしゃいでいるとき、落ち込んだときに出す声を生かして、
歌唱と語りとを合わせたFADOにしたいといつも思います。
現地のファドを歌う人たち(プロ・アマ問わず)はいろんな声がありました。
●酒やけのようなしゃがれ声
●澄み切った高い女性の声
●かすかにしか聞こえないささやきマダムの声
●しゃべり声とかわらない声色と大音量のおっちゃんの声
などなど
共通していたのは、誰も自分のことを隠さない声だったことです。
(ファドがある酒場で出会ったエドゥアルドおじさん、
「THEお父ちゃん」な話し声そのままで歌うとっても優しいおじさま)
自分の声に自信を持てないという方によくお会いしますが、
そんなことありません、とっても魅力的です。
声を気にして感情を押し殺す場面があって、いつの間にか感情すら押し殺すことも日常あります。
私も躊躇してきた経験がたくさんありました。
でも、隠さないで欲しい、その声は宝物なのだから。
赤ちゃんの声はすごいですよ、魅力のかたまり。
さて、自分の声が好きかどうかについてですが、
私は「好き」と言えるようになりました。
それは、自分自身を受け入れられるようになったからだと思います。
FADOが与えてくれた大事なこと、自分を好きになること。
Até logo!
今日の明け方、あまりに綺麗な空に感激して写真を撮った。
私のまわり、半径2mの世界は感動にあふれている。そう思った。
FADOもそうだ。いつもこんな想いを歌っている。
「空を飛ぶツバメ」 「私の家の前を通るあの娘の笑顔」 「庭のバラが踊る」
今立っている場所から見える、そんな光景、それに思いが溢れて歌になっている。
「パリに旅行して、おしゃれなカフェで・・・・」
極端な例だけど、こういうのが少ない。
自国の、自分の街の、自分の生活の場で起こることが何より大切だという印象を受ける。
FADOのそんなところが好き。
来月で私は36歳を迎える、流行も苦手で、ファッションやトレンドに縁遠いタイプ。
いろいろコンプレックスを感じることもあったけど、
振り返ると、自ら遠ざけていた気もする。
子供のころから腹の中では「流行なんてどうでもいいや」と思っていた。
それよりも、今日家族が笑っているか、お日様が照っているか、いつもの道の花はまだ咲いているか
そっちの方が重要だった。
FADOはそんな私には味方に感じた。
詩を読んで訳する作業をすればするほど、そう思えてならなかった。
今日も身の回りの美しいこと、人恋しさ、悲しいこと、それを見つけて宝箱にしまう。
半径2mの想いは私の歌、FADOなのだ。
皆さんのまわりにも、いっぱいあるはず。
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9月からスタートした『東京ファド教室』、昨日からまた新たな生徒さんが加わりました。
まずポルトガル語の読み方からスタート。
ファドに惹かれた理由は皆さんそれぞれ。
各々のストーリーがとても愛しい・・・。
「何がきっかけだったのか」、必ずレッスンを始める前に聞いて、生徒さんと話をします。
ファドに対して何を想い、自分との間に何が生まれて、私を訪ねてくれたのか。
何故なら、この想いがFADOだからです。ささやかな事だっていいんです。
私はそれを最大限生かせるようお手伝いします。
「心がある、だからFADO。」
ポルトガルの師匠アントニオ・パレイラ(写真右)が私にくれた言葉です、私はこれに救われて歩いてきました。
教室の方針でもあります。
2008年、長期の現地修行でリスボンに住み、店で歌っていた私はポルトガル語の発音に、国籍の壁に悩まされました。
出演させてもらっていたお店でも、ポルトガル語圏のお客様に笑われたり、舌打ちをされたり、いろいろありました。
そんな時パレイラと話しました。
私「発音が悪いから笑われる」
パ「うん、それで?」
私「見た目も日本人だし・・・」
パ「うん。でも『心』がある。だからFADOだ。」
にっこり笑って師匠は言いました、それから色んなことが吹き飛びました。
私の大切なものは、ちゃんとここにあったんだと信じられました。
私の心を歌えばいい、それがFADOなんだ。
人生にも光が射した気がしました。
ステージや、演奏の場で歌うことは私にはもちろん大事なお仕事です。
そして、それと同じくらい大切なのがこの教室の場です。
FADOを歌うことで、その人の「心」がこんなにも豊かである喜びを共に見つけます。
ポルトガル語が出来ないなんて、全く気になりません。そんなのは練習であっと言う間にクリアできます。
自分の心と一致した声で歌う、ポルトガル語よりもっと難しい作業です。
大阪と東京教室に通って下さる皆さんは、自分の「心」を持って詩を紡いでいます。
皆さん、個性はバラバラ。誰も背伸びをせず、等身大のFADOを歌おうと向き合っています。
この教室の場を持てたことも私のFADO、師匠に照らしてもらった道はまだ続きます。
Até logo!